分別のある人は顔を知恵に向け
愚か者は目を地の果てに向ける 箴言17:24
分別のある人とはどんな人で、
愚か者とはどんな者か…
分別のある人は顔を知恵に向け
愚か者は目を地の果てに向ける。
愚か者はぼーっと遠くを見て、
目の前の現実を見ない。
多く場合、私たちは現実を見ているようで見ていない。
都合の悪いことはショートカットするか、
蓋をしてないことにしたりする。
極端に現実逃避をしなくても、
目の前の現実を誠実に忠実に「知ろう」としなければ、
そこで本来得られるはずのものを得ることができない。
しかし、目の前の現実は“知恵の宝庫”。
いかにして目の前の現実を見極めるか、は死活問題。
私たちは、表面的な現実の奥にある「真実」に辿り着いているだろうか?
そこに「真実」といえるものが存在することを、知っているだろうか?
もし、
そのことを知っているなら、
私たちは目の前のたった一つの現実から
実に多くのことを学ぶことができる。
「ここではない何処か(地の果て)」には、何もない。
その代わり。
今目の前にある現実は、
まぎれもなく神が私たちにとって「良し」とされた現実。
そのことを心から信じられる時、
また、
それを「極めてよい」現実として生きようとする時(創世記1:31)、
私たちは初めて、神を味方にして生きるスタートラインに立つ。
以前。
先生とある人との問答の中に
とても印象的なものがあった。
先生がその人に
「君は自分がここに座ったら(先生の立場で問答するなら)、
ということを本気で考えたことはないのか?」と問いかけられた。
さてどうだろう?
「先生の立場になるなんてとんでもない」
と、言うだろうか?
でもそれは、
あなた以外に誰も頼る人がいない目の前の苦しむ隣人に対して、
「わたしではなく、誰か別の人を頼ってください」
と言うしかない、ということ。
藁をもすがる思いで助けを求める隣人に、
そんなことが言えるだろうか・・・
私はいつも
先生から少し離れたところにいることが多かったので、
名実ともに、一つ一つの出来事が生きるか死ぬかの真剣勝負。
例えば、ある人に対して先生に相談して、
思いがけず、厳しいことを伝える役目を仰せつかってしまった時、
その時点では、なぜその人にそこまで言う必要があるのか、
その真意が分からず、戸惑うことが多くあった。
もちろん。
それをそのまま伝書鳩のように伝えることもできる。
でも、それではやっぱりその人にも真意は伝わらないことが多い。
では何ができるか??
その現場においてできる唯一のことは、
本気で目の前の現実を見極めること。
その奥にある「真実」を知ろうとすること。
神のその人に対する「真意」を本気で求めること。
それならできる。
そして・・・
ある時ふと
その奥にある「真実」に辿り着く。
いきなり目の前が開ける時がある。
伝えるべき言葉は、
私自身にとっても確信となり、
その人の魂に、
一番必要な時、
必要な場面で
手渡すことができるようになる。
「よく見て、よく聞く」
あらゆる偏見やイメージを捨てて、
裸の眼で見て、裸の耳で聞く。
今本当に必要なことは何か?
神の御心は何か?
丁寧に見極める。
迷うくらいなら黙っている方がいい。
中途半端に傷つけるくらいなら、
差し違える覚悟で大事なことを手渡せるほうがいい。
理解力ある人を一度𠮟責する方が
愚か者を百度打つよりも効き目がある。 箴言17:10
私たちは、
たった一つの現実から、
多くを学ぶ者でありたい。
目の前の与えられた、かけがえのない現実。
今、そこからしか学べないことがきっとある。
もしかしたら、
それはとても不本意な事実を突きつけられることかもしれない。
知りたくない現実を突きつけられることもあるかもしれない。
でも、そこに必ず神の「真実」がある。
そのことを信じることが出来る人は幸い。
祈りつつ。
愚か者は目を地の果てに向ける 箴言17:24
分別のある人とはどんな人で、
愚か者とはどんな者か…
分別のある人は顔を知恵に向け
愚か者は目を地の果てに向ける。
愚か者はぼーっと遠くを見て、
目の前の現実を見ない。
多く場合、私たちは現実を見ているようで見ていない。
都合の悪いことはショートカットするか、
蓋をしてないことにしたりする。
極端に現実逃避をしなくても、
目の前の現実を誠実に忠実に「知ろう」としなければ、
そこで本来得られるはずのものを得ることができない。
しかし、目の前の現実は“知恵の宝庫”。
いかにして目の前の現実を見極めるか、は死活問題。
私たちは、表面的な現実の奥にある「真実」に辿り着いているだろうか?
そこに「真実」といえるものが存在することを、知っているだろうか?
もし、
そのことを知っているなら、
私たちは目の前のたった一つの現実から
実に多くのことを学ぶことができる。
「ここではない何処か(地の果て)」には、何もない。
その代わり。
今目の前にある現実は、
まぎれもなく神が私たちにとって「良し」とされた現実。
そのことを心から信じられる時、
また、
それを「極めてよい」現実として生きようとする時(創世記1:31)、
私たちは初めて、神を味方にして生きるスタートラインに立つ。
以前。
先生とある人との問答の中に
とても印象的なものがあった。
先生がその人に
「君は自分がここに座ったら(先生の立場で問答するなら)、
ということを本気で考えたことはないのか?」と問いかけられた。
さてどうだろう?
「先生の立場になるなんてとんでもない」
と、言うだろうか?
でもそれは、
あなた以外に誰も頼る人がいない目の前の苦しむ隣人に対して、
「わたしではなく、誰か別の人を頼ってください」
と言うしかない、ということ。
藁をもすがる思いで助けを求める隣人に、
そんなことが言えるだろうか・・・
私はいつも
先生から少し離れたところにいることが多かったので、
名実ともに、一つ一つの出来事が生きるか死ぬかの真剣勝負。
例えば、ある人に対して先生に相談して、
思いがけず、厳しいことを伝える役目を仰せつかってしまった時、
その時点では、なぜその人にそこまで言う必要があるのか、
その真意が分からず、戸惑うことが多くあった。
もちろん。
それをそのまま伝書鳩のように伝えることもできる。
でも、それではやっぱりその人にも真意は伝わらないことが多い。
では何ができるか??
その現場においてできる唯一のことは、
本気で目の前の現実を見極めること。
その奥にある「真実」を知ろうとすること。
神のその人に対する「真意」を本気で求めること。
それならできる。
そして・・・
ある時ふと
その奥にある「真実」に辿り着く。
いきなり目の前が開ける時がある。
伝えるべき言葉は、
私自身にとっても確信となり、
その人の魂に、
一番必要な時、
必要な場面で
手渡すことができるようになる。
「よく見て、よく聞く」
あらゆる偏見やイメージを捨てて、
裸の眼で見て、裸の耳で聞く。
今本当に必要なことは何か?
神の御心は何か?
丁寧に見極める。
迷うくらいなら黙っている方がいい。
中途半端に傷つけるくらいなら、
差し違える覚悟で大事なことを手渡せるほうがいい。
理解力ある人を一度𠮟責する方が
愚か者を百度打つよりも効き目がある。 箴言17:10
私たちは、
たった一つの現実から、
多くを学ぶ者でありたい。
目の前の与えられた、かけがえのない現実。
今、そこからしか学べないことがきっとある。
もしかしたら、
それはとても不本意な事実を突きつけられることかもしれない。
知りたくない現実を突きつけられることもあるかもしれない。
でも、そこに必ず神の「真実」がある。
そのことを信じることが出来る人は幸い。
祈りつつ。